親しい友人に「美味しい店見つけたよ!今度一緒に行こう!!」と言われたとき、あなたはどう感じるだろうか。
いきなりこんな質問をして申し訳ない。ただ、このとき思った事を純粋に挙げてみてほしい。また、友人ではなくそんなに仲の良くない人に言われたとき、それが変わるかどうかも。
例えば、私だったら、特に親しい友人Aに対しては…
- え、どこそれ気になる
- 教えてくれてありがたい
- 一緒に行きたい
と思うだろう。
しかし、それほど親しくない…あるいは、自分が良く思っていない人Bに言われたときは…
- なんだそれ、何の店だよ
- 美味しいってお前の主観だろ
- そんなこと言われなくても、私も美味しい店知ってるし
ちょっと大げさに書いたが、こんなことを思い浮かべるかもしれない。
この両者の違いは何だろうか。
今回は、そんな違いを解説していこう。
先に紹介と注意を
今回だが、本の紹介だ。ただ、同時にこの考え方を伝えたいと思って書いている。
本は、「自分の小さな「箱」から脱出する方法」というもの。Amazonリンクを貼っておいたので、気になる方は是非読んで欲しい。
また、今回は書きたいことが多すぎて、2回に分けようと思う。まず、上のような違いと、それによって何が起こるか。次回は、それをなくすにはどうすればいいか、という構成だ。
もう一つの例
さて、冒頭のものに追加して、もう一つ例を挙げてみよう。
例えば、仕事の上司。あるいは、学校の先輩。
自分が何か成果を出したとき、その人に「よくやった!」と言われたとする。
そのとき、その上司、先輩に対する印象を2パターンで考えてみよう。
まず、自分が好意を寄せている、素晴らしいと思う人。
そして、内心「この人そんなにすごくないじゃん…」と思っている人。
どうだろうか。同じ言葉でも、まったく違う印象に感じると思う。
何が起こっているの?
二つ目の例が分かりやすい。
できる人に対しては、純粋にその言葉を受け止めることができる。
それに対して、内心良くない思いを抱いている相手に対しては、反発してしまう。「自分の方ができるし」とか、「お前こそ何かやれよ」とか思うだろう。
なぜこう思ってしまうのか、それは「自己欺瞞」と呼ばれるものが原因だ。
自己…なんて読むの?何それ?
という方が多いだろう。私も最初ルビがなかったら読めなかった。
これは「じこぎまん」と読み、自分に問題があることに気づいていない状態を表す。また、上で紹介した本の中では、この状態を「箱に入っている」という表現をしている。
これだけ見ると、「はぁ?こっちに問題なんかねぇよ」と思われるかもしれない。
だが、ちょっと待って欲しい。もう一度書くが、「自分に問題があることに気づいていない状態」なのだ。自覚がない、というところが厄介だ。
どういうこと?
ここからは、実例で書こう。
電車に乗っていて、ちょうど私の近くの席が空いた。近くに大荷物を持っていた人がいて、周りをチラ見していた。恐らく座りたかったのだろう。何回か見たことがある。
そこで、以下2パターンを見たことがある。
- パターン1:さっと横を通り抜けて我が物顔で座られる
- パターン2:「どうぞ、よかったら座って」と声をかけられる
実際、このパターン1、2のどちらか、あるいは両方をした人もいるだろう。私も両方したことがある。
この、それぞれの行動をした人の心理状態を見てみよう。
ステップ1:空いている席を見つける
このとき、どちらのパターンの人も同じだ。「席が空いている。横に大きな荷物を持っている人。座りたそうにしているし、譲るべきだろう」と考えている。
ステップ2:自分の取ろうとした行動に対して…
ここから、両者の考えに違いが出てくる。…いや、パターン1の場合「変化する」といった方が適切か。
パターン1の人の場合、「譲るべきか…いや、座ってしまえ」と思ったのではないだろうか。この、「いや」の部分で大きな変化が発生する。
このとき、自分の考えに背く…つまり、「自分を裏切る」ことになる。
パターン2の人の場合は、「譲るべきだな」という考えそのままに行動し、譲る。こっちはこれでおしまいだ。
パターン1の「変化」について、解説していく。
ステップ3:自分への裏切りによる変化
私がしてしまったときで話そう。今では申し訳ないことをしたと思っている。
目の前の席が空き、横に大荷物の人。でも、私は少し迷って、自分で座ってしまった。
このとき、私が考えていたのは…
- 自分も疲れているし、先に動いたのは私だ
- たまたま周囲を見ただけで、席とは関係ないかもしれない
- そもそも、そんなに疲れてなさそうじゃないか?だったら私が座っても問題ないはず
こんなことだ。
このとき、何が起こっているかというと、「裏切った自分の肯定」なのだ。
本来であればこうすべき…という考えに背き、行動する。そうすると、心理学でいう「認知的不協和」という現象が発生する。
これは、自分の中で矛盾した状況が発生した場合に、その矛盾を直そうとする働きのことだ。今回で言えば、「譲るべき」という考えと、「自分が座る」という行動が矛盾することになる。
そして、この矛盾を解決するために、「いや、譲るべきではなかったのではないか」と考え、自分の行動を肯定しようとしてしまうのだ。この矛盾解決のための動きにも名前がついている。「認知的不協和の解消」だ。
なお、実際は休日でこれから出かけようとしているところ。疲れなんてあるはずない。
それに、席が空くまで大荷物の人は周囲を見ていなくて、空いた瞬間に周囲を見ていたので、明らかに座りたかったのだろう。
更に、疲れているかどうか見た目だけで判断できるのだろうか。
このように、当時はありもしないことを考えてしまっていた。座ってから、自分を正当化するためにこういったことを考えていたのである。
これが、「箱に入った」状態となる。
もうちょっとしっかりした説明
「箱に入る」ということが起きると、矛盾が発生する。自分の考えに背いて行動するから、認知的不協和が発生しているのだ。
そして、矛盾が発生すると、自分を正当化しようとする。発生した認知的不協和を解消しようとしている。
すると、自分の意思や長所を過大に尊重し、相手や他人のことを過小に評価するようになってしまう。
つまり、自分の意思に反した行動をしたとき、「箱に入って」しまい、正常に物事を評価できなくなる。
他にも、こんなことないだろうか
何かを指摘されたとしよう。
このとき、素直に認められればいいが、「いや、そういうお前も…」と感じることもあるだろう。
この時点で、すでに「箱に入って」いる。指摘されたことが事実だろうと、自分は認めたくない。この事実と感情で、矛盾が起きている。
そうすると、自分が問題ないという理由を探す。また、相手の欠点を探し、あるいは過大評価してそれを指摘する。
そうなると、今度は相手が「そもそも今注意してるのはこっちなのに、なんでお前が…」となる。
お気づきだろうか。最初は純粋な好意で指摘していても、自分が「箱に入って」反論することで、相手も「箱に入れて」しまう。
こうなると最悪だ。互いに自分を正当化しようとし、相手を攻撃する。これを、本では「共謀」と呼んでいる。
この「共謀」についても、もう少し話そう。
「共謀」とは?なんでそんなことになるの?
「共謀」とは、上で書いた通り、互いに「箱に入った」状態の人たちが、自分を肯定するために相手を攻撃し合う状態のこと。
では、なぜこんなことになるのだろうか。これを解説するために、「箱に入った」状態についてもう少し詳しく見ていく。
何度も書いている通り、「箱に入る」と自分を正当化しようとする。
そのためには、その正当化の理由が必要だ。勘のいい方はもう気づいているかもしれない。
自分を正当化する理由を作り出すために
もう一つ例を出そう。会社で、あまり仕事ができない部下に、何か仕事を渡したとする。実際に身近にいる、具体的な人を思い浮かべてもらった方がいいかな。
その部下が、今回はきっちり仕事をスケジュール通りにこなしてきた。
さあ、あなたはどう思うだろうか。ここも、自分が「箱に入って」いるかどうかで変わってくる。
「箱に入っていない」場合、「おお、頑張ったじゃないか!ありがとう!」と声をかけることができるだろう。仕事を完遂したことを純粋に認められる。
しかし、「箱に入っている」場合は…「なんだ、じゃあ今までのは何だったんだ。次回以降も同じように完遂できるんだろうな?」と感じてしまうかもしれない。
あるいは、「こんな仕事ができたくらいで調子に乗るなよ」とか。つまり、相手を認めず、さらに否定してしまうのだ。
このとき、何が起こっているか…実は、「箱に入っている」と、その正当化な理由を求めるため、その部下に「仕事に失敗してほしい」と無意識に考えてしまうのだ。それに裏切られることで、自分が正しいことの根拠を探して、更に相手を否定してしまう。
部下が仕事に失敗すれば「ほら、やっぱり。私の考えは正しかった!」と、自分を肯定する材料になる。ひどい場合、失敗させるように情報を渡さなかったり、別の仕事も追加で入れたりということもあるかもしれない。
同じ仕事をする仲間を失敗させようとすることによって、自分の仕事にも影響が出てくるだろう。つまり、自分の首を自分で締めていることになる。
これが、「箱に入る」こと最大の恐ろしさだ。
「箱」を持ち歩く
これらが、「自分の感情に裏切ったとき」だけ発生してればまだマシだろう。
しかし、実際にはこの「箱に入った」まま、行動を続けてしまうことに繋がる。
上にも書いた通り、自分の感情に裏切って「箱に入る」と、自分の考えや能力を過大に評価する。
これがたった1回であればいいのだが、これを繰り返していると「常にそうだ」という考えに発展してしまう。
そうなると、いつも自分が正しい、という錯覚に陥り、感情に背かずとも、「箱に入った」ままになる。つまり、その「箱」が、自分の性格になってしまうのだ。
これが、「箱を持ち歩く」ということだ。
じゃあ、どうすればいいのさ
となるが…ここは次回にしようと思う。気になる方は先に本を読んでしまおう。
まとめ
今回は、自己欺瞞…「箱に入る」とは何なのかと、それによって起こることを解説した。ちょっと、本の順番と入れ替えたところもある。
紹介した本の中では、「自分への裏切り」というタイトルで、以下のようにまとめられている。
1.自分が他の人のためにすべきだと感じたことに背く行動を、
自分の小さな「箱」から脱出する方法
自分への裏切りと呼ぶ。
2.いったん自分の感情に背くと、
周りの世界を、自分への裏切りを正当化する視点から見るようになる。
3.周りの世界を自分を正当化する視点から見るようになると、
現実を見る目がゆがめられる。
4.したがって、人は自分の感情に背いたときに、箱に入る。
5.ときが経つにつれ、いくつかの箱を自分の性格と見なすようになり、
それを持ち歩くようになる。
6.自分が箱の中にいることによって、他の人たちをも箱の中に入れてしまう。
7.箱の中にいると、互いに相手を手ひどく扱い、互いに自分を正当化する。
共謀して、互いに箱の中にいる口実を与えあう。
さて、このままでは非常にまずいだろう。
次回は、この「箱から出る」にはどうすればいいか、まとめていく。
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それでは。
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